天下三名席『猿面茶席』-名古屋城における古材再利用

茶席からはじまり、意匠表現に徹して発展した“数奇屋建築”。名古屋城に、数奇屋四畳半台目(だいめ)茶席があるのをご存知でしょうか。

柿葺き(こけらぶき)の庇(ひさし)、壁の腰は杉皮張り    葛屋葺き、柿葺きの土廂(どびさし)

慶長15年(1610)より築城工事が始まった名古屋城には、清洲城の建物の一部を解体した材が用いられました。戦火を免れた「西北隅櫓(せいほくすみやぐら)」は、現存する数少ない城郭建築で重要文化財に指定されていますが、『猿面茶席』にも当時は同じ清洲城の古材が使われていました。

残念ながら昭和20年1月3日の空襲により焼失した為、現在の茶席は昭和24年(1949)に復元されたものです。
この茶席は何度も移築された歴史があります。まず古田織部の意匠により本丸に造営され、この折、床柱の削り面にある二つの節が「猿面」のように見えたことから『猿面茶席』と呼ばれるようになりました。

元和6年(1620)二之丸へ。明治6年(1873)に旧尾州藩士刑部玄(おさかべげん)の自邸へと移され、のち名古屋市博物館庭園に移築されて人々に親しまれました。

昭和4年(1929)鶴舞公園に移築後、国宝指定を受けましたが、先の第二次世界大戦にて焼失してしまいました。幸いにも詳細な調査図面が残されていた為、焼失直前の姿ではなく、今度は古図に従って再建され、長らく不明であった躙口(にじりぐち)も妻入りとなっています。

名古屋城内には、前記の『猿面茶席』の他、『澱看(よどみ)茶席』、『書院 並びに 次間、五畳座敷』、『又隠(ゆういん)茶席』、『織部堂』が新緑に苔生す庭園を囲んで配され、幽玄の世界を醸し出しています。

城内にあった加藤清正手植えの老松が書院・次間に使われている。
建具上部の少し開かれた無双(むそう)から入る風が訪れる人を心地良く迎えてくれた。

一見質素な素材で造られた小さな空間、そこには先人の高度な美意識が凝縮されています。そこに身を置くと、心の豊かさは物質のみが与えてくれる訳では無いという事に気付かされます。
都会の喧騒を離れ、時の止まった茶席でしばし心を休めてみては如何でしょうか。

(土屋知子)