「筆」を最後に握ったのはいつのことだったろう。「筆ペン」ではなく、墨をつける本物の毛筆。正直、高校生のときにもあったかどうか記憶が怪しい。それほど、少なくとも筆者(ここにも「筆」は出てくるが)にとって、毛筆は縁遠い存在になってしまった。
愛知県には「豊橋筆」がある。…ということも、恥ずかしながら知らなかった。本連載を始めるにあたって“発見”し、各種資料に目を通しながら「へぇー」がとまらない。資料いわく、豊橋筆は江戸時代後期、京都から吉田藩(豊橋)に招かれた学問所の御用筆職人がつくり始めた。へぇー。生産量は現在も年間180万本に達し、シェアは全国の約25%。へえー。高級品に限れば80%。へえぇー。そして最大の「へええー」は、こんな記述だった。
「伝統的に使用されてきた原材料-ヤギ、ウマ、タヌキ、イタチ、シカ、ネコ、ムササビ、リス」
まさに生物多様性、そのものではないか。しかし、タヌキやイタチなら何となくわかるけれど、ムササビやリスまで筆になってしまう? しかも国内ではめったに入手できなくなり、今はほぼ輸入に頼っているという。希少種もありそうだが、その管理はどうなっているの? そんな無数の「へぇー」と「?」を抱えて一路、豊橋に向かった。
■里山が育てた産業
JR豊橋駅から東へ約2キロ。国道1号線、つまり旧東海道沿いに「杉浦製筆所」はあった。創業1916(大正5)年、豊橋筆の製造所を代表する老舗だ。
玄関の引き戸を開けると、そこはもう作業場。3人ほどの女性職人が何十本もの筆を束ねて作業をしていた。
「つくり方自体は、100年変わってないんですよ」
案内していただいたのはこの製筆所の伝統工芸士、杉浦美充(よしみつ)さん(44)。豊橋筆振興協同組合理事長でもある父・良雄さん(74)の跡を継ぐ4代目だ。
豊橋筆は自然豊かな里山の広がる環境と、東京、大阪に続く交通網があって発展した。戦後はベビーブームで学校用の筆を中心に需要が増し、今の倍ほどの職人が朝から晩まで働き、「つくったそばから出荷していく」光景が、杉浦さんにも幼い日の記憶として残っている。
ところが実感していた通り、さまざまな筆記具やパソコンの普及、そして少子化にともなって需要は落ち込む一方。さらに筆の「命」である毛の入手も年々難しくなっている。国内でまかなっていた原毛の割合はここ数十年でみるみるうちに減り、今では70%以上が輸入頼み。ほとんどは中国からだが、ウマはモンゴル、シカはタイやベトナム、ウマはアメリカやカナダなどと、こんなところにもグローバル化の波が押し寄せていたのだ。
■1本に4、5種類の毛
しかし、そもそもなぜこれほど多品種の毛が必要なのだろう。
「動物の毛はそれぞれでまったく質が違うし、同じ種類でも一頭として同じものはないからです」と杉浦さん。驚くべきことに、一般的な書道筆でも、1本の穂には4、5種類の動物の毛が組み合わされているのだという。
「例えばタヌキの毛は毛先の方が太くて弾力があるけれど、根元は弱い。だから筆にするには根元に硬いブタの毛などを混ぜて強くする。その混ぜ方には教科書もレシピもなく、職人の経験と勘だけが頼りなんです」
豊橋筆には原毛の選別から、灰をまぶして脂分を取り除く「毛もみ」、数種の毛を水で混ぜ合わせる「練りまぜ」など36もの工程がある。その作業は実に繊細だ。どの現場も職人の高齢化や後継者不足に悩むなか、杉浦さんの製造所では浜千代栄作君(17)が修行に励む。見事な手さばきは大人顔負けに見えるが、一人前になるにはやはり10年はかかるのだという。

繊細な職人技が求められる筆づくり。左は弱冠17歳の浜千代栄作君
ひと通り作業場を見せてもらったところで、「核心」について聞いてみる。この毛は生きた動物の毛なのか、それとも…。
「殺された動物の毛です」。杉浦さんははっきり答えてくれた。「ただ、殺す目的は毛ではなく、肉や皮。毛は最後の“余り”としてもらうものなのです」
実際、絶滅危惧種となったムササビももともとは食用だった。筆となるのは肉、体の皮を取った後の「尾」だ。その是非はともかく、日本ではこうした野生動物は個体数が激減したか、捕獲が制限されている。それを中国などからの輸入に頼るわけだが、杉浦さんによると、昔の国産ものに比べて明らかに質は低い。それは肉を大量に流通させるため、毛がしっかりと生えそろう前に殺してしまったり、「養殖」で育てられたりしているからだという。
■命と「多様性」教える
それにしても、こうした筆づくりが乱獲や種の絶滅に「荷担」してしまう恐れはないのだろうか。杉浦さんとも取引のある商社は「原料となる動物が中国などでどう扱われているか、完全に管理はできていない」と前置きしたうえで、「中国もワシントン条約の締約国(注・締約は1981年)となり、輸出入は格段に厳しくなっている。現場には今まで使えたもの、本来なら使いたいものがあるだろうが、今手に入るもので工夫してください、とお願いしているのが現状」とする。
もちろん密猟や密輸は日本でもゼロではなかろう。それにどう対処するかは今や1国だけでは解決できない国際問題だ。私たち個人に必要なのは、それが1本の筆にも無関係ではない、と考えられる知識と想像力なのかもしれない。
ここ数年、杉浦さんは小学校などで豊橋筆についての「授業」を引き受けている。毛皮やはく製も見せ、動物が殺されることを伝えている。子どもたちは目をそむけたり、「かわいそう」と嘆いてみたり。それでも、こうした筆づくりは「なくせない」と訴える。油彩の筆などは人工的な化学繊維も開発されているが、書道用にたっぷりと墨を含ませられるのは、繊細な生き物の毛のほかにないからなのだ。
そして杉浦さんは、子どもたちにこう諭す。
「それぞれの毛には長所と短所があって、そこを補い合って1本の筆にするんだよ。だからみんなも、お互いに協力して、補い合って、1つのクラスをつくっていってね」-。

杉浦製筆所は毎年10月に「動物供養」を行い、筆に使った動物に感謝の意を示している
(2008年10月18日、杉浦美充さん撮影)
太古の昔から、人類は自然の恵みを利用してきた。特に日本人は自然とうまく共生し、豊かな文化や産業を築いてきたといわれる。「研究前線」と同時進行でお送りする本シリーズは、日本の伝統的なモノづくりの現場から、生物多様性とヒトのかかわりを見つめ直す。
(関口威人)

















