中国・四川大地震から2009年5月12日(火)で1年。節目ではメディアの報道などによって思い返されるものの、日本からは遙(はる)か遠い場所での出来事。ただ、その被災規模は日本でも警戒される東海・東南海・南海地震と同程度ともされ、決して他人事ではありません。心身ともに想像を絶する傷を負った被災者に対して、日本の日常を生きる私たちに何ができるのでしょうか。この1年、筆者自身が携わった「パンダタオルプロジェクト」について報告します。
(関口威人)
「小さなことでもいい。中国の被災者に、日本から『忘れていないよ』というメッセージを届けたい」
名古屋のNPO法人「レスキューストックヤード」が、地震直後に考えた「支援」の発想です。2002年の発足以来、日本各地で災害救援や復興支援に携わってきた同法人は、その経験から1年先、2年先を見据えた息の長い支援活動が四川でも重要になると考えました。そして被災地の情報を収集し、中国の政治的、社会的な特殊性も考慮して出した一つの結論が「パンダタオル」だったのです。
モデルとなったのは、阪神・淡路大震災時に神戸の被災者が始めた「まけないぞう」運動。被災地で余ったタオルでゾウのぬいぐるみをつくり、「まけないぞう」として売り出したところ好評で、その後も被災者支援のあり方として各地で広まっていった運動です。
「中国だから、パンダ」
いささか直接的ではありましたが、パンダをかたどったタオルを中国に届ける運動、「パンダタオルプロジェクト」がスタートしました。
普段から同法人に協力するボランティアの女性たちが中心となって作り方を考案し、マニュアルを作り、防災関係のイベントがあるたびに体験ブースを設けるなどして、一般の人たちにもパンダタオルを作ってもらいました。完成したパンダには、愛知県内の子どもたちが手書きしたメッセージカードを添え、袋詰めしました。後はどう現地に届けるか-。
地震から半年後の昨年11月。私は同法人のスタッフとして、日本から約60個のパンダタオルを抱えて、四川省の被災地を回りました。
この渡航は、すでに四川の支援に乗り出していた静岡県ボランティア協会と神戸市のCODE(海外災害援助市民センター)のスタッフの活動に同行させてもらう形で実現しました。

最初にパンダタオルを手渡した棚花村の「震くん」とお母さん(2008年11月、関口撮影)
広大な被災地の中で、最初に訪れたのは棚花村という小さな村。ここは伝統産業だった刺繍(ししゅう)作りの復活が震災復興のシンボルにもなり、国内外から注目されていました(関連記事:四川大地震から半年-被災女性の思い、政府動かし「刺繍学校」建設へ)。そうした話を取材しながら、ほとんどの建物が倒壊し、テント暮らしの被災者が住宅再建のためのがれきを運び込んでいる村を歩いていると、小さな赤ちゃんを抱いた母親が見えました。
「ちょうどいい」。私はその母子に駆け寄り、パンダタオルを手渡しました。若い母親は一瞬驚いたようでしたが、中国語で書いたメッセージカードを読んで理解すると、とても喜んでくれました。腕の中の赤ちゃんは、まだ首も完全にすわっていないようでしたが、母親から手渡されたパンダを、小さな手でぎゅっと握りしめてくれました。
その子の名は、「震」くん。
母親によると、なんと地震当日の5月12日に生まれた男の子だというのです。
日本人的な感覚から言うと、決して縁起が良い名付けとは思えませんが、そこは中国的感覚なのでしょう。いずれにせよ、多くの命が一瞬にしてなくなったあの日、この場所で、奇跡的に生まれ出た小さな命だったのです。
私の四川滞在はわずか4日間でしたが、この「震くん」をはじめ、何十人もの被災者に直接パンダタオルを手渡すことができました。

被災地の北川県でパンダタオルのメッセージを読む子どもたち(2008年11月、関口撮影)
帰国後、このパンダタオルプロジェクトを報告会を開いたり、メディアを通じて紹介したりすると、少なからぬ反響がありました。私が夢中で撮影した子どもたちの写真から、彼らの置かれたつらい境遇と、それに負けないたくましさを感じ取り、涙を流してくれる人もいました。
そんな中、静岡県のケーブルテレビ局「ドリームウェーブ静岡」の関係者がこのプロジェクトに関心を持ってくださいました。同局では毎月1回、北京在住の関係者が中国の最新情報をレポートする番組を放映しており、その特別番組をパンダタオルプロジェクトについて制作したい、との申し出。しかも日本から現地にスタッフを派遣して、「震くん」を訪ねてくれるというのです。
私たちにとっても、パンダタオルの意味を確認できるまたとないチャンスであり、全面的に取材に協力しました。
3月末から4月上旬にかけ、同番組の制作ディレクターである箕輪幸徳さんが北京の映像制作会社の金大成さん、天野清美さん夫妻と合流し、四川入りしました。現地ではちょうどチベット問題が再燃していたこともあり、外国人の取材に対しては非常に厳しい雰囲気だったそうです。箕輪さんたちは予定していた車のチャーターをあきらめ、バスやタクシーを乗り継いで、何とか棚花村へ。そして「震くん」の家を訪ねました。
ところが-。
「震くん」はたまたま親戚の家に出掛けており、不在だったそうです。
でも、家の人によると、「震くん」はどこに行くのにもパンダタオルを手放さず、今回もパンダタオルとともに出掛けてしまった、というのです。
私はその報告を聞いただけで、胸が熱くなってしまいました。
その後、名古屋で箕輪さんを招いて小さな報告会を開き、特別に放映前の番組を上映してもらいました。私の訪問時からもまったく手が付けられず、倒壊した建物が放置されている街の映像もありました。こうした街は「震災博物館」とするしかなく、観光地のように「ツアー客」が見物にやってきているのが現状です。

地震発生から半年後の被災地、漢旺の街の様子(2008年11月、関口撮影)

地震から約1年後の漢旺。壊れかけた建物やがれきは、まったく手つかずのまま(2009年4月2日、箕輪さん撮影)
番組の最後に、箕輪さんは帰国後、四川からメールで送られてきたという画像を紹介してくれました。
それは、パンダタオルを抱える「震くん」の姿でした。
あれから半年-。たった半年だけれど、震くんは顔つきも、体つきもしっかりしたように見えました。ほんの一瞬の出会いだったのに、こんなふうに多くの人のかかわりで「再会」できるなんて。そして本当に献身的に、一つ一つパンダを作り上げていったボランティアの人たちの姿を思い返し、私の目は涙でにじんで、震くんの顔がよく見えなくなってしまいました。
箕輪さんは「震くんと会えなくて、取材としては目標に及びませんでした。でも、このプロジェクトが確実に心と心をつないでいる。これが、一つの答えじゃないでしょうか」と言ってくださいました。

四川からメールで送られてきた「震くん」の写真(箕輪さん提供)
震災の規模に比べ、ここでできたことは本当に小さなことです。四川の復興にとってどれほどの意味があるのか、正直、今の時点でもまだわかりません。ただ、こうして1年間、私たちは四川に「思い」をはせることができたのは事実です。現在はタオルと(目や耳にする)黒フェルト、マニュアルなどを合わせた「パンダタオルキット」を、1セット100円で販売。特に高齢者の手芸教室などで扱ってもらい、好評です。資金的な問題も含め、今後も議論や試行錯誤は続いていきます。
「名古屋産」のパンダタオルは今、700個以上になろうとしています。
関連リンク NPO法人レスキューストックヤード
ドリームウェーブ静岡特別番組「BAOBAOスペシャル 四川に渡ったパンダ~震災一年後の四川~」
※訂正 上記記事で「静岡ドリームウェーブ」とあったのは、「ドリームウェーブ静岡」の誤りでした。おわびして訂正いたします。(2009年5月12日)























