2008年のノーベル賞“連発”で沸く名古屋大学。なかでも「クラゲの蛍光タンパクの発見」で化学賞を受賞した下村脩(おさむ)さんの研究は、とりわけインパクトが大きい。何十万匹も採取したというオワンクラゲをめぐるエピソードは親しみやすく、生物から謙虚に学ぶ姿勢は2010年の名古屋開催が決まった生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)のテーマにも通じそうだ。先端研究の現場から生物多様性の意味を浮かび上がらせる本シリーズは、こんな「生物研究の名大」の伝統を、下村さん直系の理学部よりも色濃く残す、農学部教授の西川俊夫さん(46)の「フグ毒」研究からスタートすることにした。
(関口威人)
ノーベル賞受賞者を輩出した平田研究室の流れをくむ
名古屋大大学院生命農学研究科教授の西川俊夫さん
■ノーベル賞研究の“DNA”
ただでさえ広い名古屋大のキャンパスを、奥へ奥へとひたすら歩く。かすかに「におい」が変わり、ニワトリの鳴き声などが聞こえ始めると、そこが農学部の研究エリアだ。
振り返ると、下村さんのノーベル賞受賞でスポットライトを浴びた理学部の研究棟群。01年に同じく化学賞を受賞した野依良治・理化学研究所理事長にちなんだ「野依記念物質科学研究館」がガラス張りの威容を誇る。視線を戻して一方の農学部は、昔ながらのコンクリート施設。象徴的と言うべきか、失礼ながらどうしても地味な印象がぬぐえない。そんななかで、今春教授に就任したばかりの西川さんの研究室は、週末にもかかわらず白衣姿の学生たちが忙しく出入りし、これまた失礼だが意外なほど活気に満ちていた。
「下村先生の受賞を聞いた夜、名大はこんなにすごいんだぞと学生に伝えたくて、急いで資料をつくったんです」。西川さんは開口一番、ノーベル化学賞発表翌日の講義で使ったという資料を、パソコンの画面上で見せてくれた。そこには下村さんが「一番の恩師」と公言する故平田義正・元理学部教授から始まる名大出身者の系譜が示してあった。
代表的な「平田門下生」としては7人の名。下村さんをはじめ、またいつノーベル賞受賞者が出てもおかしくない、そうそうたるメンバーだ。そのうち、故人である後藤俊夫・元農学部教授から連なる系譜を一番下までたどり、西川さんは言った。「名前は書きませんでしたけれど、私はこの辺です」-。
もともと理学部系の平田研究室は、動植物からの天然物質の抽出に力を入れ、特に「フグ毒」研究では世界に名をとどろかせていた。1955年に研究生として迎え入れられた下村さんはウミホタルの研究を担当し、今回のノーベル賞に結びつく研究の礎を築いた。その後、平田研は理学部のなかで山田靜之、上村大輔、伊丹健一郎の各教授に引き継がれたが、慶応大に移籍した上村教授からこの春バトンを受けた伊丹教授自身、「私たちは分子レベルの反応や合成を探るフラスコの中の研究が中心。本当の生物利用という名大の伝統は、西川さんら農学部の方が色濃い」と明かす。下村さんが中継した平田研の“DNA”は、西川さんや小鹿一教授といった農学部の研究者たちが地道に受け継いできたといえそうだ。ちなみに下村さんのノーベル賞受賞後、西川さんが正式にメディアの取材に応じるのはこれが初めてだという。

名大「平田門下生」たちの系図
■のめり込んだフグ毒研究
門外漢にはかなりややこしいのだが、西川さん自身も本来は有機化学、つまり理学系の研究者だ。出身地の長野県岡谷市から静岡大に入学し、当時名古屋大から移ってきていた上村教授に師事。「小さな分子がわずかな量で人間や動物に影響を与えてしまう」天然物化学の研究にのめり込んだ。静大卒業後は名大大学院を目指したが、恩師に勧められたのは平田研の有機化学研究を農学部にも植え付けた後藤教授の研究室。そこで当時助教授だった磯部稔・現名誉教授とともに本格的に取り組んだのが、平田研以来の「王道」であるフグ毒研究だったのだ。
フグ毒の正体は「テトロドトキシン」と呼ばれる天然化合物。その毒性は青酸カリの1000倍以上、わずか2ミリグラムていどで人間を死に至らしめる猛毒だ。それを化学合成で人工的につくり出すことは極めて難しく、アメリカのノーベル化学賞受賞者も途中であきらめたとされている。その難物中の難物の化学合成に1972年、世界で始めて成功したのが「平田門下生」の1人で現在も毎年ノーベル賞候補に挙げられる岸義人・米ハーバード大教授。そして30年後、まったく新しい方法で2度目の成功例を示したのが、他ならぬこの西川さん。そこに至るには、名大の伝統と「10年以上も好きにやらせてくれた」研究環境が無縁ではない。
テトロドトキシンには、微妙に化学構造の違う類縁体が20種類ほどもある。そのほとんどは毒性が低いというが、西川さんはこれらすべてを化学合成によってつくり出そうというとてつもない目標を掲げながら、類縁体が存在する理由も探し当てようとしている。
「なぜこんなに種類があるのか、はっきりとしたわけはまだ分かりません。ただ一つ言えることは、動物と同じように分子にも多様性があって、それが何億年もかけて残ってきた。そこに無駄なものなどあるはずがない、というのが僕の考え方です」
テトロドトキシンの類縁体「チリキトキシン」の分子構造(ともに西川研究室提供)
■研究にも「多様性」を
フグ毒についてはまだまだ分からないことが多い。代表的な謎は「誰がフグ毒をつくっているのか」。フグ毒はフグ自身が体内で生産しているわけではない。バクテリアなどの微生物がつくり、食物連鎖によってフグの体内に蓄積されているという説が有力だが、実証はされていない。また、魚のなかでもなぜフグだけがこれほどの猛毒を蓄えていられるのかも、詳しくは分かっていない。
一方で、猛毒の天然物が鎮痛剤などに応用される例はある。まさに「毒をもって毒を制す」の例え通りだ。しかし、フグ毒は1960年代から製薬化が目指されてきたといわれているが、いまもって薬にはなっていない。だからこそ成功すれば名声とともに莫大な利益を手に入れることになろうが、こんな目論見を西川さんは冷ややかに見る。
「僕自身はフグ毒が薬になるとは思っていない。天然物が薬になるかならないかは本当に微妙な世界。しかも、もしフグ毒が応用されても、化学合成より天然のフグから取り出した方がコストはかからないから、僕の研究は役に立たないでしょう」。では何のための研究なのか。西川さんは「純粋に生物の不思議を追いかけているだけ」と言い切る。
「下村さんの発光生物研究だって最初は何の役にも立たないと思われていた。たまたま『道具』として使えると分かって脚光を浴びたんです。10年先に何の役に立つかなんて誰も予測できない。でも、今の日本の研究環境は実用的なもの、アウトプットの明確なものだけにしぼりこもうとしている。大変に問題が大きいと思います」。こうきっぱりと問題提起した後、結んだ。
「研究にも、まさに多様性を残していくことが必要じゃないのかなあ。うん、まさにその通りだ」
情熱と理性、そして反骨の“DNA”が、確かにうごめいたと感じさせる瞬間だった。
























